2004年10月23日17時56分 中越大地震 震度6強
その時自閉症の子供たちは
大きな災害が起こるたびに、自閉症など障がいを持っている人たちはどうしているだろうと心配になります。新潟県知的障がい者福祉センターが実施したアンケート調査(右の表)によれば、2004年の中越大地震では 被災地で福祉サービスを受けている利用者のうち ほぼ35%(101/285人)が自宅で生活、31%(88/285人)が避難所で、23%が車の中で生活、という結果であった。障がい者を持つ家族は避難所での生活を避ける傾向があったようである。 中越大地震のほぼ1年後に 日本自閉症協会新潟県支部の協力を得て、自閉症の子供をお持ちのお母さんに集まってもらい、その時どう過ごされたか話を伺った。言葉では語れない苦労が見えてくる。 (2005年7月15日 ながおか市民センターにて)
比較的安定していた。家の中はめちゃくちゃになったが、家族と一緒に玄関の前に座って待っていた。(魚沼地区)
18歳、170㎝、80Kgの男子。地震が起きた時は4畳半の部屋で寝ていた。部屋にあった4つのタンスは全部倒れたが、幸い怪我はなかった。家から出たのは一番最後だった。避難所のある小学校グランドで 1500㏄の車に親子4人で8日間過ごした。あまりパニックはなかった。フラッシュバックで 忘れたころに急に飛び上がることがある。(小千谷地区)
21歳、男子。地震が起きた時は 家にいた。場面の移動が苦手。余震があって危ないので避難所へ行くように誘われたが、子どものことを考えて家にいた。電気はつかず ろうそくをつけていたので、本人もそれなりに状況を理解していたようだ。地震の夜はとなりの部屋を片付け、パジャマを持ってきて寝た。家族は一晩中起きていたが、本人は寝ていた。布団のなかに入っていれば落ち着いていた。2階から いろいろなものを 隣家の駐車場に投げるので、車を移動してもらった。音楽が好きなのでカセットを聞いていた。夜はろうそくの明かりを楽しんでいた。(小千谷地区)
被害のなかった親戚の家に世話になったので、それほど大変ではなかった。地震のあった夜は公園にテントを張って、その中で寝た。テントはとても気に入っていた。(長岡地区)
中学2年生。被害は少ないほう。一番困ったのはトイレ。怖くて入れない。男親と2人で懐中電灯をもって入った。ライフラインはすぐに回復した。買い置きの水があったので ご飯を炊いた。あまり大きなパニックはなかった。(長岡地区)
小学5年生 男子。地震が起きた時には 別の部屋にいた。呼んだら声がしたので 無事を確認できた。中学2年生にしがみついて震えていた。手を引っ張ってもなかなか出て来てくれない。地震が起きた日は、軽自動車に一泊した。その後10日間、家の片付けをしていても 「これはだめだ。」と言って、家の中には入ってくれない。食事は食べられるものがなくて困った。おにぎりは わかめご飯しか食べないが、配られるものは かつをや梅のおにぎりだった。水も飲まない。結局 2日間は何も食べなかった。家に麦茶をやかんで沸かしていたのを思い出して、持ってきて飲ませた。
高校生2年、男子。長岡から実家に帰る途中で 地震にあう。道路が寸断され、一晩 車の中で過ごす。車の中では 家に帰ってご飯を食べたいと騒いだ。公民館に一時避難し、養護教諭学校に移動した。養護学校ではおとなしかった。食事は困った。普段でも湯気が出ている暖かいご飯しか食べられない。配給される食糧は ほとんど手をつけなかった。水だけ飲んでいれば、死にはしないと思ったが、心配した。一緒に養護学校に避難している人が、コンビニで大根サラダを買ってきてくれた。すぐには食べなかったが、しばらくして食べた。生野菜を食べたのは 生まれて初めて。それ以降 生野菜が食べられるようになった。「サトウのご飯」(電子レンジ食品)も食べてくれた。大変ありがたく思っている。(長岡地区)
高校1年、男子。最初の3日間は本当に大変だった。自分の部屋に走って戻ろうとする。家の中は混乱している。状況を理解できない。家に戻って 安心する場所がほしい。食料の配給があっても 食べられるものがない。好きなカップラーメンがない。よく布団の中に入っていた。お風呂は入れる時間が限られており、男親は仕事で時間が取れない。お風呂は結局入らなかった。避難所で自閉症のことが大きな声で言えるようになるといいと思う。自閉症を持つ家族のために 教室などを貸してもらえるなどの配慮があるとよかった。(長岡地区)
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