大震災から避難生活へ48時間ドキュメント その時入所者は

知的障害者厚生施設 新潟県あけぼの園

2005年7月15日にあけぼの園を訪問し 高橋園長、佐藤主任、中沢主査から 2004年10月23日に起きた中越大地震の話を伺う。あけぼの園が作成した「大震災から避難生活への48時間ドキュメント」の文章をもとにインタビューの内容を加筆した。職員の人たちの熱意と使命感を感じる。

10月23日土曜日  あけぼの園には入所者が26人、職員が5人いた。土曜であった為 帰宅していた入所者は24人。入所者の平均年齢は39歳。7割が重度。

17時56分  夕食が始まって数分のこと。ドーンという衝撃音と激しい縦揺れ。停電し 非常灯が作動。食堂では職員が「テーブルの下へ」を繰り返す。泣き出して立ち上がろうとする人、ゲーゲーと吐き気が続く人、食堂から出て行こうとする人。(土曜日で在園者が約半数であり、また夕食時でほぼ全員が食堂にいた。これが平日の深夜で職員が2人しかいない時であればとても対処できなかったのではないか、と佐藤主任。)

18時05分  食堂にいたのは21人、4人はすでに寮に戻っていた。事務室前にいた1名を保護。広汎性発達障害のM君は いつも食べるのが早く すでに寮に戻っていた。職員が「行くよ。」と言うと 素直に来てくれた。

18時10分  寮に通ずる廊下の壁の一部が崩れ落ち、鉄骨はむき出し、床には20㎝ほどの段差。辺りには粉塵。寮にいた3名を保護。移動を拒否していた1名も食堂へ移る。

18時11分  強い余震により WKさんの食事の場所に落下。こだわって 最後まで食事を続けていたIH君の20㎝横に落ちた。WKさんはテーブルのしたに隠れていた。2人とも怪我はなかった。

18時15分  全員が体育館に避難することに決定。

18時25分  4-5人づつピストン移動。車いすの人が2人いたが 一人は「逃げなきゃ死んじゃうから」と言って 車いすを使わずに 頑張って歩き出した。廊下に段差があり、職員2人で車いすを抱えて移動。途中で泣き出すひともいたが、みんな無事であった。移動を拒否しているひとには 時間をかけて説得した。(車いすをやめて歩き出した人は、その後も頑張って歩くようになった。彼らが持っている力を再発見、とは高橋園長。)

18時35分  全員無事 避難完了。

18時40分  壁の金網をつかんだまま ゲーゲーと吐き気が続いている人。職員にしがみつきながら泣いている人。それ以外は皆 静かで落ち着いていた。

18時50分  非常灯が消え、真っ暗に。

19時30分  近所に住む旧職員が来てくれた。入所者も職員も 歓声をあげて喜ぶ。サーチライト4本と電池を確保。探すのに苦労した。サーチライトは天井に照らして 明かりにした。夕食後の薬の投与。このころになると 入所者のストレスも限界を超えてきた。その日に飲むことになっていた 缶コーヒーを飲みたくて泣き叫ぶ人。大声でわめきだす人がいた。缶コーヒーは 探し出して飲ませた。(2時間半後にはさらに職員や旧職員が駆けつけてくれた。家をかたずけて、すぐに駆けつけてくれた人、40キロ以上離れている所から来てくれた人。たいへん心強かった、と中澤主査。)

20時00分  体育館への布団運び。21時半には全員 床につく。職員が交代でトイレに行く。

23時00分  断水

10月24日 日曜日  朝食はパンと牛乳。これは地震が起こる前に 園に到着していたもの。昼食は市が配給してくれた弁当。夕食として市から配給されたものは パン1個とペットボトル1本。一番困ったのが トイレの水。下の田んぼの水道が破裂していたので そこから水を確保。

10月25日 月曜日  園の備蓄食による給食開始。水の確保とお湯を沸かす熱源が不足していた。体育館はすでに悪臭が漂い、咳が出始めているひともいた。体育館での避難生活は限界に近づいていた。コロニーにいがた白石の里構成センターへの移動を決定。17時までに全員移動が完了。コロニーでの避難生活が始まった。

当時の防災計画では 今回のような地震は想定していない。計画の見直しが必要。「水、トイレ、電話」が確保できる場所を複数個所確保しておく必要あり。自家発電装置は40分ほど動いたが、最低1時間から1時間半必要。非常用備蓄品は保管場所をわかりやすく。職員一人に懐中電灯1個。卓上コンロ、ガスボンベ、湯沸かし用やかん、携帯ラジオ、発電式ラジオ、携帯電話、非常用食料、飲料水、トイレ用水など。

(この項終わり)